福島支援01
2011.06.09 18:55|未分類|
5月21、22日に福島県いわき市久ノ浜(ひさのはま)へ復興支援と視察に行ってきました。
この久ノ浜は福島第一原発から28Km~32Kmの場所に当たり、町の半分は屋内待避エリア。
放射能の数値は大勢のボランティアの方が訪れている被災地と変わらないのですが、
原発から半径で一律に避難エリアなどを決めてある為、ボランティアの方々も近寄れず、
震災から2ヶ月半過ぎたにも関わらず全く復興が進んでいません。
そもそも今回、復興支援と視察に参加したのは、被災地の方々のお手伝いをしたいと言う思いは勿論のこと、
静岡に地震が来た時、久ノ浜と同じく津波や原発の影響が考えられる為、
同じ様な環境の場所を支援し視察することで、静岡の防災対策に役立てられればという思いからでした。
出発前日は環境省のecoコンシェルジュ事業の診断員に選ばれているため、東京にてセミナーに参加。
静岡より地震の影響のあったこの場所で、たまたま起こった震度4の余震に、
なんとなく次の日の心構えと言うか、緊張感が...。
当たり前のことだけど、東京はエレベーターや切符販売機が、節電の為にところどころ止めてある程度でいつもと変わりはない。
この日は東京駅に近いホテルで一泊。東京に住む妹夫婦と食事を終え、次の日に備えて早目の就寝。
5月21日。ホテルを8時前に出発し東京駅の六厘舎で朝ラーメン。
いつもラーメン食べてるねと言われますが、「今日は食べたな~」と思うときで、一日5食食べる程度...。
六厘舎は朝にもかかわらず、相変わらずの行列。いそいそと列に加わり、いつも通り美味しく食し、
心もお腹も満足!!と気合が入ったところで待ち合わせの東京建物ビル前に。
東京建物ビルの前で、衆議院議員の玉城デニー氏と待ち合わせ。
バスが到着するまで、デニーさんの出身地でもある、沖縄の家の造り方は自然に逆らわず、自然にも人にも優しいこ
とを教えて頂きました。自然に対して対策を打つというより、自然にそって進化させて来たといった感じでしょうか。
仕事の傍らeco活動もしているので、興味深く聞かせて頂きました。
9時15分、バスが着き早速出発。
出発後まもなくマスクや手袋が配られ、少々気が引きしまる。
バスの外を流れる何も変わらない東京の風景と数時間先に目にする事になる被災地の光景。
考えるだけで、何とも言えない不思議な感覚に取り込まれる。
首都高を抜け常磐道を北へ。
茨城を抜けると道はでこぼこが多くなり、補修の跡があちこちに見られるように。
途中のサービスエリアでは災害救助に向かう車が目立ち更に緊張感が。
いわき四倉ICを降り久ノ浜に向かう。
道中、自然の美しい福島に観光で来た時のことを思い出し、少し心苦しくなってきた。
のどかな風景。一見何も変わらない様な農地を通り抜け、陸橋を渡る。向うには久ノ浜第一小学校が見える。
こちらも遠目からだと別段変わった様子は無いように見える。
久ノ浜の駅を横目に通過し久ノ浜町舎に駐車。
この場所は原発から30Kmちょっと外れた地域。放射線量は0.4~0.8μSV程度。
支援に来る程度では支障はないが、一日中屋外でこの空気に触れていると100日程度で1㎜SVをこえてしまう。
さらに砂地や草地の足元では1~3μSVを記録する。
本当にこの地を復興に向けて支援してよいものだろうか??
それが本来の意味で人の為になることなのか?
町民に戻ってきて欲しいと言う気持ち、町民の住み慣れた土地に戻りたいという気持ち。
その気持ちはわかるけれど、本当にそれで良いのか…?このときは答えが出ませんでした。
「とにかく来たからには何かしよう」1泊2日の限られた時間の中、今は無心になることに。
穏やかな天気でさわやかな風が吹いているが、線量計を見ると間違いなく原発の影響が出ている事を思い知らされる。
高台から見ても30Kmのラインなどどこにも見えない。
目に映る『穏やかな風景』が逆に目に見えない放射能への不安も増幅させる。
30Km以内と30Km以外では何がどう違うのであろう??
やはり同心円による被災地の仕分けの意味がよく解らない。
駐車場から地元ボランティアの中心になっている諏訪神社へ徒歩で移動。
道すがら、建物には「現状保存」の張り紙がしている程度で、普通の海沿いの町が見えるだけ。
やはり海岸沿い特有の潮の香りが混じる心地よい空気が流れている。
しかし、この町で一番高台のこの辺りでも、良く見ると住める状態にない家があちこちに。
こっちには住宅の2階部分だけが・・・津波の力に驚かされる。
ボランティアの拠点となっている諏訪神社。若い宮司の高木さんを中心に活動をしている。
とはいえ外部からボランティアチームが訪れたのは今日が初めて。
放射能の数値的には近隣の被災地と大して変わらないのに、同心円で括られた為
ボランティアが寄り付かないこの地に、三島市議の古長谷さんが訪れたのが5月始め。
誰もいなくなったこの地で、誰かがいないと復興できないと現地に戻った諏訪神社の高木さんと
この地の復興に協力すると約束をして来ました。
復興の第一段階として今回は、地元ニーズをヒアリングする予定でしたが、
高木さんと東京から通うボランティアの本柳さんとで、事前にニーズを聞き取りに廻ってくれていたので、
ヒアリングは残る一部のみで、早速作業に入ることが出来ました。
そこで現場作業チームと、ヒアリングチームの2手に分け作業をすることに。
現場作業チームと共に、スコップを持って早速移動開始。
先程まで居た場所とあまり離れては居ないのですが、下り坂に差し掛かると広がる風景が、一気に変わる。
見渡す限り、ぞっとする風景が続く...。
この辺りは地震よりも津波被害の大きかった地域。そして広範囲に及ぶ火災があった場所。
テレビではこのような様子をよく見ていたが、実際に目すると胸を掴まれるような息苦しさと
この状態で何をどこからどのように復興するのか、頭が真っ白になる...。
津波と地震の被害だけなら、もっと復興も早いのだろうが、それを阻むように原発の問題が圧し掛かっている。
歩いていると、最近戻ってきたばかりのおばあちゃんが一人、ぐちゃぐちゃの庭を掃除している。
放射能のことは分かっていても、やはり避難所生活は大変なので少しずつ戻って来ている様だ。
次に続く。
←ぽちっと応援よろしくお願いします
←ご面倒ですが こちらもぽちっとお願いします
この久ノ浜は福島第一原発から28Km~32Kmの場所に当たり、町の半分は屋内待避エリア。
放射能の数値は大勢のボランティアの方が訪れている被災地と変わらないのですが、
原発から半径で一律に避難エリアなどを決めてある為、ボランティアの方々も近寄れず、
震災から2ヶ月半過ぎたにも関わらず全く復興が進んでいません。
そもそも今回、復興支援と視察に参加したのは、被災地の方々のお手伝いをしたいと言う思いは勿論のこと、
静岡に地震が来た時、久ノ浜と同じく津波や原発の影響が考えられる為、
同じ様な環境の場所を支援し視察することで、静岡の防災対策に役立てられればという思いからでした。
出発前日は環境省のecoコンシェルジュ事業の診断員に選ばれているため、東京にてセミナーに参加。
静岡より地震の影響のあったこの場所で、たまたま起こった震度4の余震に、
なんとなく次の日の心構えと言うか、緊張感が...。
当たり前のことだけど、東京はエレベーターや切符販売機が、節電の為にところどころ止めてある程度でいつもと変わりはない。
この日は東京駅に近いホテルで一泊。東京に住む妹夫婦と食事を終え、次の日に備えて早目の就寝。
5月21日。ホテルを8時前に出発し東京駅の六厘舎で朝ラーメン。
いつもラーメン食べてるねと言われますが、「今日は食べたな~」と思うときで、一日5食食べる程度...。
六厘舎は朝にもかかわらず、相変わらずの行列。いそいそと列に加わり、いつも通り美味しく食し、
心もお腹も満足!!と気合が入ったところで待ち合わせの東京建物ビル前に。
東京建物ビルの前で、衆議院議員の玉城デニー氏と待ち合わせ。
バスが到着するまで、デニーさんの出身地でもある、沖縄の家の造り方は自然に逆らわず、自然にも人にも優しいこ
とを教えて頂きました。自然に対して対策を打つというより、自然にそって進化させて来たといった感じでしょうか。
仕事の傍らeco活動もしているので、興味深く聞かせて頂きました。
9時15分、バスが着き早速出発。
出発後まもなくマスクや手袋が配られ、少々気が引きしまる。
バスの外を流れる何も変わらない東京の風景と数時間先に目にする事になる被災地の光景。
考えるだけで、何とも言えない不思議な感覚に取り込まれる。
首都高を抜け常磐道を北へ。
茨城を抜けると道はでこぼこが多くなり、補修の跡があちこちに見られるように。
途中のサービスエリアでは災害救助に向かう車が目立ち更に緊張感が。
いわき四倉ICを降り久ノ浜に向かう。
道中、自然の美しい福島に観光で来た時のことを思い出し、少し心苦しくなってきた。
のどかな風景。一見何も変わらない様な農地を通り抜け、陸橋を渡る。向うには久ノ浜第一小学校が見える。
こちらも遠目からだと別段変わった様子は無いように見える。
久ノ浜の駅を横目に通過し久ノ浜町舎に駐車。
この場所は原発から30Kmちょっと外れた地域。放射線量は0.4~0.8μSV程度。
支援に来る程度では支障はないが、一日中屋外でこの空気に触れていると100日程度で1㎜SVをこえてしまう。
さらに砂地や草地の足元では1~3μSVを記録する。
本当にこの地を復興に向けて支援してよいものだろうか??
それが本来の意味で人の為になることなのか?
町民に戻ってきて欲しいと言う気持ち、町民の住み慣れた土地に戻りたいという気持ち。
その気持ちはわかるけれど、本当にそれで良いのか…?このときは答えが出ませんでした。
「とにかく来たからには何かしよう」1泊2日の限られた時間の中、今は無心になることに。
穏やかな天気でさわやかな風が吹いているが、線量計を見ると間違いなく原発の影響が出ている事を思い知らされる。
高台から見ても30Kmのラインなどどこにも見えない。
目に映る『穏やかな風景』が逆に目に見えない放射能への不安も増幅させる。
30Km以内と30Km以外では何がどう違うのであろう??
やはり同心円による被災地の仕分けの意味がよく解らない。
駐車場から地元ボランティアの中心になっている諏訪神社へ徒歩で移動。
道すがら、建物には「現状保存」の張り紙がしている程度で、普通の海沿いの町が見えるだけ。
やはり海岸沿い特有の潮の香りが混じる心地よい空気が流れている。
しかし、この町で一番高台のこの辺りでも、良く見ると住める状態にない家があちこちに。
こっちには住宅の2階部分だけが・・・津波の力に驚かされる。
ボランティアの拠点となっている諏訪神社。若い宮司の高木さんを中心に活動をしている。
とはいえ外部からボランティアチームが訪れたのは今日が初めて。
放射能の数値的には近隣の被災地と大して変わらないのに、同心円で括られた為
ボランティアが寄り付かないこの地に、三島市議の古長谷さんが訪れたのが5月始め。
誰もいなくなったこの地で、誰かがいないと復興できないと現地に戻った諏訪神社の高木さんと
この地の復興に協力すると約束をして来ました。
復興の第一段階として今回は、地元ニーズをヒアリングする予定でしたが、
高木さんと東京から通うボランティアの本柳さんとで、事前にニーズを聞き取りに廻ってくれていたので、
ヒアリングは残る一部のみで、早速作業に入ることが出来ました。
そこで現場作業チームと、ヒアリングチームの2手に分け作業をすることに。
現場作業チームと共に、スコップを持って早速移動開始。
先程まで居た場所とあまり離れては居ないのですが、下り坂に差し掛かると広がる風景が、一気に変わる。
見渡す限り、ぞっとする風景が続く...。
この辺りは地震よりも津波被害の大きかった地域。そして広範囲に及ぶ火災があった場所。
テレビではこのような様子をよく見ていたが、実際に目すると胸を掴まれるような息苦しさと
この状態で何をどこからどのように復興するのか、頭が真っ白になる...。
津波と地震の被害だけなら、もっと復興も早いのだろうが、それを阻むように原発の問題が圧し掛かっている。
歩いていると、最近戻ってきたばかりのおばあちゃんが一人、ぐちゃぐちゃの庭を掃除している。
放射能のことは分かっていても、やはり避難所生活は大変なので少しずつ戻って来ている様だ。
次に続く。
←ぽちっと応援よろしくお願いします
←ご面倒ですが こちらもぽちっとお願いします
- 関連記事
-
- 福島支援03 (2011/06/09)
- 福島支援02 (2011/06/09)
- 福島支援01 (2011/06/09)
- うまいもの02 (2011/03/10)
- パスタ作り (2011/03/07)
スポンサーサイト